35話 違和感の正体(後)




 とりなすように少女は両手をぱちんと合わせた。
「でも、術式でも式札でもないとなると、どうやって速度を上げたんでしょうね?」
 徒歩で先に家を出発した弟を、後から馬に飛び乗って駆けた兄が追い付くまで何分かかるか――何となく算術の問題を思い浮かべ、サティは首を捻った。
「だが、魔術の類でないとなると、物理的な方法か?」
 ベルも思案顔で腕を組む。
「案外、大きな海洋生物が船底にいて、その力で動いてたりして」
 多くの子どもたちが幼い頃に聴いて憧れた、あのキング船長の海洋冒険譚を思い出し――確か彼の愉快な仲間は賢い鯨たちだった――サティが軽く言えば、二人の口許が可笑しそうに緩み始めた。
「熱血エースと!」
「賢いジャック!」
「うっかりキングの愉快痛快冒険譚!!」
 朗らかに歌いながら三人は欄干へ駆け寄った。
 青々とした海原が広がるばかりで、頼もしい相棒二人の姿は確認できない。
 けれども、船内には笑い声が木霊した。
「何だか盛り上がっているな」
 勢いよく顔を上げる。光を散らすような白い髪の男が立っていた。
「おお! お兄さん!」
「ちょうど良いところに!」
 こちらの声に彼の肩が大きく跳ねた。
「つかぬことをお伺いしますが」
 三人の期待に満ちた視線が一気に集まったからなのか、眼帯で覆われていない側の瑠璃色の瞳が戸惑ったように揺れた。
「この船、速度がぐんと上がりましたけどいったいどんな種と仕掛けがあるんですか?」
 サティが声を弾ませれば、
「式札でないとすると、どでかい海洋生物に引っ張ってもらっているんじゃないか説が協議でまとまったところなんですよ」
 熱血エースと賢いジャックのような、とジークが補足する。
「どうなんですか!」
「お兄さん!」
 鼻息荒く詰め寄る三人組にケイオスは頬を思い切りひきつらせ、目をそらした。眉間には皺が深く刻まれている。
「ご期待に添えず申し訳ないが、エースでもジャックでもないぞ」
 ファーロが笑い声混じりに口を挟んできた。
 その助け船にケイオスは隠すそぶりもなく、安堵の息を吐き出す。
 三対のきらきらとした瞳がファーロに注がれる。
「じゃあ魔術ですか?」
 ジークの眉が嫌そうに大きく寄った。
「いや、式札でもないぞ。この船はな、ホバー船なんだよ」
「えっ!?」
 船長の言葉に一同は声を失った。
 ホバー船は、「エンジン」とかいう機械だか装置だかの動力で進むものだという。先文明――失われつつある技術――の一つである。
 魔術の研究が進む前の時代は、このような機械を用いた科学技術が広く普及していたのだという。けれども、現在のアルカディア王国では魔術が人々に広く浸透している。当然、魔術を学び、職として向き合う者も多い。
 学術機関の最高峰である王立魔術学院だが、その他にも私立のスクールが各地には点在している。
 魔術学院を卒業した後、研究機関に残る者もいれば、国から認可の降りた機関で魔術機具の開発に携わる者もいる。後者の方が圧倒的に多い。凪の対策用の風の魔術から金庫の強力な封印(ロック)の鍵、台所用の湿気取りまで――ありとあらゆる分野に魔術師は携わっている。
 近年、魔術師の式札が手頃な値段で大量に買える時代になった。ホバー船は式札よりも手間や維持費のかかるものらしい。当然、ホバー船よりも帆船の需要が増した。需要と供給の逆転に伴い、技術者の数も減少した。こうして、この先文明の技術も学校の歴史の授業だったり、それらをこよなく愛好する者たちの研究機関くらいでしかお目にかかれなくなったのである。
「どうした? そんなに驚くことか」
 歯を見せて、からりとファーロが笑う。
「いえ、そうした技術があるって聞いたことはありますけど、実際に見るのは初めてで」
「手間も時間もかかるが、その分愛着がわくというか、楽しいんだよな」
 息を吸うのと等しく魔術に親しんできたジークにとっても先文明に触れるのは未知の体験だったようだ。口を真っ直ぐに引き結ぶと甲板を歩いては止まり、止まっては歩き始めた。あちこちを矯めつ眇めつしている眉間には濃い影が落ちているが、紺碧の瞳は好奇心で煌めいている。
 その姿を視界に収めたままサティは尋ねた。
「確か、ホバー船を扱える職人さんや部品が減ったので手入れが大変になったのではないですか?」
「ああ。確かに式札と違って、手間も時間も金もかかる。時代遅れだからなあ」
 ファーロは朗らかに微笑んで言葉を返す。
「けどな、あらかじめ完全に組み込まれた魔術式を借りずに俺たち自身の手でこの船を動かすのは楽しいんだ。手間も時間も金もかかって仕方はないが、手のかかる奴ほど可愛いとでも言うのかねえ」
 まるで我が子の悪戯を優しく見守るような寛大さを振りまく彼の笑顔はどこまでも眩しい。
「ケイオス、お前もそれが楽しいんだろう?」
 振り返ると、そこには光を散らすような白い髪があった。降り積もる静寂に似た、白。
「はい。風を読み、波を知る。先文明でも今の文明でもそれは変わらない。けれども、自分たちの手でそれをするからこそ楽しいのだと、そう思います。手間も面倒もかかりますが、私にはそちらの方がずっと好ましい」
 瑠璃色の片目を眩しいくらいに綺麗に細めて、ケイオスは笑った。海原に真っ直ぐと向けられた眩しいその瑠璃色は、夜が朝に溶けていく空の色に似ていた。
 ケイオスの言葉に満足そうに頷きを返すファーロの表情もまた優しげに微笑みの形を作っていた。
 そのくすぐったさにサティも笑った。
「ほらケイオス、その眼帯、やっぱりおかしいって笑われてるぞ」
 ケイオスの肩を叩き、ファーロが声を弾ませた。
「塗り薬の処方日数が今夜までなので」
「先生はもう治ってるって言ってたのに変なところで頑固だなあ、お前は……」
 呆れたように息を吐き出し、ファーロは肩をすくめた。
「片目じゃ船は任せられん。乗り物酔いしやすいお客さんにこれの船は苦行だろうよ。ってこら! ケイオス! なんでまんざらでもない顔をする!?」
 恭しくケイオスが礼をとった。冗談にしては品のある、それでいて綺麗な動きであった。
「一部では大好評を博しておりますゆえ」
「一部って何ですか一部って……」
 レオンの顔が思い切り引きつった。気のせいでなければ血の気も引いている。この世の終わりでも見たかのように険しい顔つきでレオンが荷物に沈み込んだ。見かねたベルが彼のそばへ歩み寄る。
「物好きな連中がいるんだよなあ、世の中」
 呆れたようにファーロは頬を緩めた。
「でも、まあ、万全の体調だと、こいつの操縦もたまに当たるからなあ」
 レオンの背を撫でていたベルが、不思議そうに首を傾げた。琥珀色の瞳がまあるく開かれている。
「たまにとは……?」
「五回に一回くらいは揺らさずに船を出せる時があるんだよ。もっと安定して船出せるようになれば、良いんだがなあ。そういうわけで、俺の船に乗れたお客さんたちは実に運が良い」
 甲板を歩き回っていたジークがサティのそばへ戻ってきた。瞬時に紺碧の瞳と視線を交え、二人は頷き合う。そして――天を大きく仰いだ。
「おお、なんということでしょう。今月の運を使い果たしてしまったかもしれないな!」
「レオン君が!」
「俺かよ」
 声に元気はないが律儀に非難をするあたり、レオン・カーディナライトは本当に人が好い。
「君たち、仲良いなあ!」
 豪快に腹を抱えてファーロが笑った。
「年の近い兄弟ってのも良いもんだな。うちは娘が一人だけだから賑やかなのが羨ましいよ」
「兄弟ではないですよ。幼馴染と舎弟です」
 サティがやんわりと注釈を入れると、彼はますますおかしそうに肩を揺らした。
「見たところ、年少のお嬢ちゃんのパンチが一番良いな。いくつだい?」
「十七です」
「えっ!?」
 ファーロが目を大きく見開いた。
 ケイオスも凍りついたように息を呑む。一瞬にしてその表情が消えたのが分かった。
「ごめんごめん。もっと小さい子かと思ってたよ。ごめんごめん。わははは」
 慌てたようにファーロが声を立てた。
 分かりやすいその反応にサティは口角を上げた。
「気にしないで下さい。そう見えないってよく言われるので慣れてますから」
 そして。先ほどからあたたかく頭上を行き来する、ふさふさの毛皮で覆われた幼馴染の手を掴んだ。
「といいますか、ベルさん! 頭ぽんぽんするの止めて下さいよう! 縮みます! 慰めは無用です!」
 睨み付けると、彼ははっとしたように琥珀色の瞳をぱちくりさせた。尻尾もみるみる下がっていくのが見える。感慨深げに彼は呟いた。
「そうか。もうすぐサティも十八になるんだな……」
「そうか、お嬢ちゃんも次に誕生日が来たら成人するんだねえ。めでたしめでたし」
「心こもってませんよ、それ。それよりもお兄さん!」
 サティは眉を吊り上げると、つかつかとケイオスとの距離を縮めた。甲板に響き渡る足音が距離を詰めるにつれ徐々に大きさを増していく。やがてそれは相手の目の前に立つと、ぴたりと止んだ。
「そこまで驚かなくてもいいじゃないですか! そういう反応が一番傷つきます……。おじさんやベルさんのような生温かい励ましの方がいくらかマシです」
「いくらかなんだ……」
 ジークがぽつりと呟いてくるのが聞こえた。けれども、外野の反応はまるッと流し、サティはケイオスをじっと見上げた。
 ケイオスは睨み合いに耐えられなかったのか、ほんの少し視線を横にずらした。それでもサティがまっすぐと眼差しを向けていると、彼は一度瑠璃色の右目を伏せて、開いた先にあるこちらの瞳を今度こそ捉えた。
 しかし、それもほんの一瞬だった。彼は顔をずらした。
 サティが口を開く。と――
「すまなかった」
 風が止んだ。途端、上空を舞う海鳥の鳴き声も静まった。
 見上げているこちらに、ケイオスはうつむきがちにただ静かに笑みを刻んだ。静寂に添えるように。


 船がゆっくりと速度を落としながら、やがてゆっくりと止まる。
 空が赤みを帯び始め、温かな色を成す。太陽が傾きかけた頃に、船は港に到着した。
 眩しい光にほんの少し目を細めて、見つめる――水の都、パールディア。
 アルカディア王国内でただ一つの町全体が透明度の高い海に囲まれたこの都市は、真珠の名産地として古くから親しまれている。磨かれた真珠のように真っ白い建物が整然に並んでいるというその街は、この位置からでは夕陽のせいでその全貌を見渡すことは叶わなかった。
 船を降り、桟橋を歩く。
 ベルとジークが先を進み、その後をレオン、サティ、それから町の入口まで送ってくれるというケイオスが続く。
 桟橋は想像していたほど揺れはしない作りであった。少しだけ足を速めて一歩分後ろに並び、レオンを窺う。酔い止めの効き目は確かだったようで、馬車から降りた時ほどの濃い疲労は顔に浮かんでいない。
 ただし、船上でファーロからケイオスの外れた時の操舵の揺れの酷さについてたっぷりと聞かされたからか、やや頬が引きつっていた。
(聞いた話だけで酔うなんて、レオン君は本当に器用なんだか不器用なんだか……)
 小さく笑って速度を緩めたその時だった。何かに蹴躓き、体が大きく傾ぐ――
「危ない!」
 背後から、焦ったような声が聞こえたような気がしたが、定かではなかった。桟橋との距離が一気に縮まる。けれども、後ろから伸びてきた手が彼女の腕を支えようとしたのか、引っ張られた。途端、倒れ込む速度が緩んだ。が、それはほんの一瞬だった。
「あだっ!?」
 サティの顔が桟橋と最接近した。
 倒れたまま無言で顔を上げると、黒髪の幼馴染殿が手のひらをぐっと握り、拳を作っていた。
「おー、立て、立つんだ、さっちー……」
「やる気のない声援は止めて下さい」
 半眼でうめくと、もう一人の幼馴染殿が手を差し出してくれた。
「ありがとうございます。ベルさん」
 あたたかで、ふっくらとした大きな手のひらに力強く引っ張られてサティは立ち上がった。
 けれども、ベルは黙したまま後方へと向き直った。怪訝に思って彼女も振り返る。
 ケイオスがぼんやりと自分自身の手のひらを見つめていた。瑠璃色の瞳から鷹揚さがすっかり抜け落ちている。
 そっとベルが口を開く。
「何か迷惑をサティがかけただろうか」
 ぴくり。一瞬、ケイオスの肩が動いた。少し驚いたようだったが、すぐにベルの方へ体を向け、苦笑を浮かべた。
「あ、ああ。すまない。目がくらんでしまって手に力が入らなかった。君、怪我はないかね?」
 すまなそうに落とされた声。それなのに、どこか違和感あった。サティの背筋に、何か冷たいものが伝う。
 指先がじわりと冷えていく。その感覚に、思わず息を呑んだ。胸がざわめく、この感覚は知っている――
 サティは首を大きく横に振った。
「そうか。それは良かった」
 ほっとしたように息を吐くと、彼はこちらへと歩みを進め、そのままサティとベルを追い抜いた。
 サティは開きかけた口を閉じ、ただ視線を逸らさずに前を行くケイオスの背中を見つめる。
「サティ」
 名を、呼ばれた。
 のろのろと振り返る。
 レオンが困惑したように顔をこちらへと向けていた。
「本当に平気か?」
 サティは小さく首を縦に振る。特に異常はない。
「じゃあ、なんでそんな痛そうな顔してるんだよ」
 惑うことなく、返された。
 一つ、息を吐く。そのまま一度、瞳を伏せてから、開いた。その先にあるのは真っ直ぐな翠色。気遣うようなレオンにサティはへらりと笑みを落とした。
「……べつに。ちょっと懐かしいなあと思っただけです」
 そして、胸中で付け加える。

 ――ああいう反応をされたのは。

 違和感の正体。ケイオスは一度もサティと視線を交えようとしないのだ。